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東京生活

第十夜 「夜の終点」〜Homeward Bound〜


 

掌に起こされてはつと氣が付ひたら、どうやら終点らしい。
ああ、すみませんなどと、曖昧な物言ひで慌てて安全地帯に降りたら、電車はさつさとドアを閉めて、暗闇の中にがたがた音を立てて消へていつた。


闇に埋もれて行く赤い小さなテールランプを眺めていたら段々眼がはつきりとしてきた。周りを見渡しても誰もゐない。降りたのは僕一人だけか。いや、全体ここはどこだらう?と、停留所の駅名を見やうと思つたが、表示燈は消へてゐるし、煤けて何が書ひてあるのか解らない。一体何処なんだらう。


まあ、こんな所に一人で居てもしやうがない、とにかく僕は歩いて何処かに出ることにしやう。と、思ふがしかし、周りの店も夜中で開いている訳ではなし。明かりの消へた商店街は全く寂しいものである。しかも方向が全く不案内で、どちらに向かつて歩けば何処に出るのかまるで解らない。


そんな夜中の街をうろうろしている内に、横丁の奥に赤い提灯が揺れているのを見つけた。こんな遅くに未だ開けている店があつたと思ふとホッとする。いや助かつた、彼処で一寸道を訊けば良いじやないか。小腹も空ひている事だし、序でに一献といふのも良ひかもしれない急ぐ訳じやなし。


ともあれ、中に入らう。かすかに揺れる提灯を左手で避けて、おや、ここの扉は引き戸じやないんだ。手で押すと「ぎい」と音を立てて開く、一寸洒落た意匠を施した木のドアーだ。赤提灯ではなくてバアなのか?と、中に入る。


「いらっしゃ・・・・」
店主が言ひかけた言葉を飲み込み、店の中の空気が一瞬固まつたのが解つた。店の中はカウンタとテーブルが2つ。10人も入れば一杯になるやうな小さな佇まひだが、なんだらう此処は。こんな店は初めてだ。その、なんだ、えーと。まあ、すなはち、見渡すと店主もお客も、皆「猫」だつたのだこの店は。


あれれ、とは思つた物の、中を覗ひて直ぐ引き返すのも失礼かもしれない。後で猫たちに「だからニンゲンてのは、不躾なものでしてね、ふふん」とか言はれるのは癪だし、それは人間の沽券に係はる問題である。したがつて僕は、何も無かつたやうに振る舞つて、空ひているカウンタに腰を掛けた。


店主らしい虎猫がカウンタ越しに「いらつしゃい」と云ひ直した。そして僕の顔を見て、にゃあと少し嬉しさうな表情で「珍しひですよ、ニンゲンのお客さんは。何にします?」と訊ひてきた。

僕は壁に貼つてあるメニュを眺めてみたが、どうも人間向きの物は中々に少なひやうだ。その中でも当たり障りのなさそうな、まずは、またたび酒に、さうだな、網焼きシシャモをお願ひしやうかな。


僕がまたたび酒、と発音した時に、店の中に居た全員の猫の耳が、申し合はせたやうにぴくりと動ひたのが可笑しかつたので、ちょつと笑つたら、カウンタにいた少し歳を取つた黒猫が僕の隣に「宜しゐですか」と移つてきた。


「ええ、どうぞ」と僕が答へると、その黒猫は全く紳士らしゐ振る舞ひで僕の隣に腰を掛けた。カウンタの止まり木は背が高く、猫の多くには足が届かなひだらう高さではあるのだが、流石猫は身が軽く、事もなげにひよいと座る。


「あなたは、ニンゲンにしては、見どころのある方とお見受けしたが」老黒猫は、威厳を持つてゆつくりと僕に話しかけてきた。
「いへ、僕は普通の人間ですよ。物書きをしてゐるんです」と答へた。店中の猫が、僕の一言一言に耳をそばだてている気配を感じる。
「いや、でも珍しゐ。この店に入つて來るのだから、あなたは少し猫つ氣があるのかもしれなゐ」
と、云ひ終わらなひ内に、店主の虎猫が透明な小さなグラスに入つたまたたび酒を出して呉れた。
「本当ですよ。ニンゲンのお客さんなんて、久しぶりです」と、やはりにやあとした笑顔で言ふ。


僕は褒められたのだか何だか良く解らなひので、曖昧に微笑んでまたたび酒に少し口を付けて見た。ちょつと桃のやうな爽やかな香りがするが、喉に刺すやうな鋭さで、思はずごほごほとむせてしまつた。
「ふふ、まだお若いから」と、老黒猫が見下したやうな言ひかたをして、自分のグラスを僕のグラスに「チン」と當てた。
「ニンゲンにはきついでせう。喉のね、構造が違ふですよ。粘膜の」と、知つたやうに吹聴する。猫も人間も、年寄りは意味もなゐ自慢話ばかりだ、と、少し思ふ。


まあ、味は悪くないので、またたび酒をちびりちびりやりながら、老黒猫と取留めなひ話をしてゐると、他のお客猫は、どうも僕の事が気になるらしく、時々ちらりと観たり耳をぴくぴくさせて、あの人間は何を言つているのだらうと聞き耳を立てているのが解る。

さうしている内に辺りにかうばしい香りが漂つて來て、どうやらシシャモが焼けてきたやうだ。店主が四角いお皿に並んだシシャモを「だうぞ」と出してくれる。その焼け具合が実に見事。熱々のを頭から齧ると、適度に脂の乗つた魚の旨味がじんわりと口の中に広がり、思はず天を仰ぎたくなるやうな味わひだ。


「魚に関しては」
訳知りにまた隣の老黒猫が話し始めた。
「魚に関しては、猫に敵う哺乳類は居ない。特に焼ゐた魚はね」
僕はその得意げな横顔を眺めながら、シシャモを堪能してまたたび酒を煽る。
「ただ」
老黒猫は、一寸ため息を付きながら僕の顔をじつと見つめた。

「ただ? 何です?」
僕はシシャモをくわへたまま訊き返す。
「ただ、我々は、肉食の猛獣である記憶を持つている」
「はあ、さう言へば虎や獅子は猫の仲間ですね」
老黒猫は、ボクの眼をじつと見つめたまま「さうだ、彼らと我々はその祖を同一としてゐる、肉食獣なのだ」
「ええ、図鑑なんかで見・・・・」
と言ひかけて、店の中の視線が、全部僕に集まつているのを感じた。「あれ?」


いつの間にか店中の猫が、その眼を釣り上げ、目の玉を細く尖らせて、あれあれ、あのテーブルの三毛猫なんて毛を逆立ててるし、店主は何だよ、いけなひよ爪なんかそんな出しちや。


「知つているか、肉食」
 老黒猫も既に爪をカウンターに立てて、今にも飛びかからうと構へをしてゐる。空気がビリビリ震え「ふー」といふ声があちこちから聞こへて來る。身の危険を感じた僕は狼狽へた。意味も無く手に残つたシシャモを掴み、口の中へ放り込んで噛み砕き、またたび酒を一気に呑んだ。


喉に刺すやうな刺激と、口の中に広がる香りを感じながら、僕は此の支払ひは、果たして人間のお金で良ひのだらうかとふと思つてしまつた。ポケットに手を突つ込むと、じやらじやらと小銭の感触がして、これで足りるのかどうか、肉食獣に戻つた猫に囲まれてどんどん空気がビリビリしてくる中で、僕は其ればかりが心配になつてきた。



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まつばらあつし作家:まつばらあつし http://www.asahi-net.or.jp/~tz9a-mtbr/
イラストレーター

1960年東京生まれ。イラストレーションやFlashアニメーションを中心に雑誌や広告、Webで活躍中のクリエイター。MacFan、MacPeopleなどのMac系雑誌ではライターとしておなじみ。Applestoreでのワークショップやトークステージも大好評。お絵描き屋さん&文字書き屋さん。 日本映画テレビ技術協会会員、デジタルイメージ会員、ナショナルジオグラフィック協会会員、中国・石家荘東方美術学院 客員講師

 



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