●「序」
●「亡命するアート」
●「コトバをもう一度!!」
●「特別寄稿:フォト・ジャーナリスト 魚住葉子」
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■最後に……
この章が、ホントの最後である。あとひと息、お付き合いのほど!! (ここまできてようやく筆者であるタケシ・トラバート、「私」ではなく「ぼく」に戻ってみる)
“コトバをもう一度 !! ”
【 国際ポエトリー・ギグ 】
一昨年、ぼくは友人のジャマイカンと共に “国際ポエトリー・イベント” なるものを何度か開催した。
出演者は毎回、10名から15名ほど。
そして不思議なことに10名だったら10ヶ国、15名だったら15ヶ国といった具合に、決して国籍がダブるということがなかった。
あらかじめそういったコンセプトで始めたわけでも、ねらった訳でもないのだが、当日になって改めて出演者リストを見なおすと、どうゆう訳かいつも全員、違う国籍……、見事なまでのバラつきにおののいてみたり唸ってみたり……
ぼく自身はどんな例外もなく、決して国籍や民族や宗教や靴下の臭いでその人物をカテゴライズすることはないが、ただひとつ、話す言語や口調でその人物の思考形態をつかもうとしてしまう困ったクセがある。
たかがコトバ、されどコトバ。言語の違いは肌の色より信仰の違いより、ジャンキーかアル中の違いよりも大きいと感じることが多々ある。
それが、こと「ポエトリー・リーディング」などといった露骨なまでに “言葉” とその “語感” が重要とされる場では……お察しの通り。
微妙なニュアンスから、その言語独特の言い回しにいたるまで、聴きにきてくれる観客は全神経を使って詩の世界に入ってゆかなければならないのだが……たちの悪いことに出演者は何語でパフォーマンスしようが構わぬ、といったスタイルをぼくは貫いた。
フランス人はフランス語で詩を読み、ギリシャ人はギリシャ語で、ルイジアナ出身のアメリカ人は南部なまりの英語で、といった具合に次々とやってもらう。
いままでそのイベントに参加してくれた詩人たちが用いた言語を記憶している範囲で羅列してみると、他に、オランダ語、パトワ語、ハングル語、イタリア語、ロシア語、スペイン語、アマハリ語、ダブリンの下町英語、ブルックリンのハイパー英語、ヘブライ語、ポルトガル語、広東語、ドイツ語、ヒンドゥー語、トルコ語、フィンランド語、日本語(もちろんオレ)、といった具合。
他にもパキスタンのウルドゥー語、ケベックのフランス語なんてのもあった。
冗談のようだが、ホントの話で、よくぞ東京近辺だけでこれだけ多彩な詩人たちが集まったものだと今でも不思議でしょうがない。
本来、似たようなイベントならば、とりあえず英語か、たどたどしい日本語で統一するのが当たり前なんだろう。しかし、ぼくはこれが楽しくてたまらなかった。そして詩人たちが連れてくる客層もまたカラフルで、一度など、東京で開催してるはずなのに観客に日本人がひとりもいない、なんてこともあった。
◆
当初、司会進行は相棒のジャマイカンが英語で、それをぼくが日本語でフォローしていたのだけど、何回もやってるうちに奇妙な現象が起こり始めた。
ある晩、フランス人の可愛い女流詩人が、いかにもといったフランス語で即興詩を読み終えた後、会場にフランス語を解する人間がはたしてどんだけいんのか? なんてヤボな疑問符が浮かび上がる前に、観客全員による拍手喝采の渦に会場がグラグラ揺れ始めてしまったのだ。
その瞬間、ぼくの中で引っ掛かっていたイワシの骨のようなわだかまりがスッと消え、冬眠状態だったビート魂がようやく炸裂……そうだ、かつてビートの連中のほとんどは、英語なんていう言語のスペシャリストじゃなかったな〜、と。
ケルアックは小学生あたりまでフランス語しか喋れなかったし、ギーンズバーグは英語より出生の言語、ヘブライ語を喋ってたと記憶する。グレゴリー・コーソにしたってイタリア語が先だった。だからこそ既存の「コトバ」そのものをバラバラに解体してパッションのおもむくままに再構築し、コトバをまるで遊び道具のように自由自在に切り刻んでは、炒めて焼いての文化と世界を作り上げちまった……
でも、待てよ、ともうひとりの自分とその背後霊がささやく。
結局は「英語」という枠の中に収まったまんま、その後、意訳・直訳・妙訳・抄訳されて世界に広まったにすぎないじゃないか、と。
◆
もちろんビートたちが解き放ったメッセージやスタンス、あの自由奔放で確信犯的カウンター・ヴィジョンはしっかり伝わっただろう。現にぼく自身、十代半ばでビート・カルチャーと “遭遇” し、見事なまでにザブンと洗礼を受けた。ちなみに、その洗礼名がトラバート……。
そしてその後の長い旅、長い夜、長い路上のうえで幾度となくビート文学の登場人物におのれを重ねてみては至福の瞬間(Beatitude)を追体験してみたり、ひとり勝手に悦に入ったりしたものだった。
ただ、旅人同士でジョークを交わしたり議論するには英語で十分だけれど、ぼくは訪れた土地の住人たちとも身振り手振りにスキンシップ……プラス、それ以上のコミュニケーションを欲した。
どんな町や村でも、大抵、英語を操る人間にたいして面白い奴は、あまりいない。
若くてまだ頭が柔軟でグニャグニャだった頃は、新しい土地に足を踏み入れるたびに、その土地の言葉をダイレクトに理解しようと、辞書だの教科書だの押売りされた何年も前のカレンダーだのを古本屋でみつけてきては、仲良くなったその町や村の可愛い女の子を先生に、必死になって勉強したものだった。
しかし、旅が長くなればなるほど、新たな女と恋に落ちてしまうし、新しく覚えなければいけない言語が増えてゆくのは当たり前。
いくら若かろうが精力旺盛だろうがハスラー気取ってようが、そう簡単に幾つもの言葉などマスターできるはずがない。
で、なんのハナシでしたかな?
そう、「コトバの囚われ人」。いや違う、コトバを必要としないコミュニケーション、でもなく……、意味を持った言葉が無意味になる瞬間についてだ。
そう、先のパリジェンヌがもたらした一種の「越境一体感」は、ぼくに詩やその朗読会というものを、これまでとはまったく違ったレベルに昇華させようと働きかけた。
しょせん同じ言語を共有する人間同士だって、「詩」という至って抽象的な表現や独特な言い回しをちゃんと理解できているわけではないし、そもそも受け取る側の勝手な解釈が大いに許される自己表現だ。
それは、絵画や音楽がときに「言語」としてのパワーを持つのと同じように、既成のツールを使って何かを表現するという行為から、とっくに離脱した “何か” であるわけ。
冒頭で取り上げた「ポエトリー・イベント」で、なぜぼくが共通言語を排斥し、好き勝手にやってもらったのか、という問いの答えがそこにある。
もちろん「これだけの国から集まったコトバの表現者たちに、客が理解できるように英語でやれだの、日本語で統一してくれだのリクエストしたところで……」と開き直り半分、実験心半分、というのが理由だったが、それ以前に、「皆が理解できる表現形態なんてオレは信じない!」というアートに対する頑固なスタンスが根っこにあったからだろう。
コトバを愛するが故に、コトバを殺す……
映画『髪結いの亭主』じゃないけど、大切にし過ぎているもの、思い入れの激し過ぎるもの、過剰なまでに何かを愛おしく思う時、それを永遠なるものに留めたいがゆえに放棄する。あるいは、暗黒の濁流に身投げする……
そんな大袈裟なものではないが、ぼくはこの時代にできる「意味の付された言葉への破壊工作」をその後、実際に行ってゆくことになる。
あくまでも「コトバ」に固執しつづけるのならば、いっそのこと誰も理解出来ない言語でパフォーマンスしてみよう、と。
それが詩人でありビート・エンジェルでもあった、先ほどのパリジェンヌが無意識に提示してくれた揺さぶりへの、ぼくなりの返答としてとっさに思いついた考えだった。
◆
会場には英語を理解出来ない日本人のお客さんの割合も多くなっていったが、日本語を理解できない在日外国人も常連さんとして毎回来てくれていた。
大抵、トリはいつもジューイッシュ・アメリカンの老詩人、マイク・ジェイコブ氏か、主催者のひとりでもあるぼくだったのだが、“巴里の女” の一件以降、既に存在している言語でなく、即興で口から出てくる何語でもないコトバで “詩” を吐き出すようになった。
一種の「エスペラント語」であり、同時に「オレ語」だ。
そいつを初めてやったとき、観客は一瞬だけ呆気にとられたが、すぐに「何だこりゃ!?」といった反応から「さっぱり解らんが、こういうのもアリでないかい?」というように、わりと好意的に受け入れてくれ、矢継ぎ早に “オレ語” でポエトリーする本人の方が驚きモモの木ガンジャの木……
どこらへんで終えればいいのか困ってしまうほど意外な大受けにたじろぎつつも感謝感激、誰かに会場から引きずり出されるまでつづけたくなるほど、次から次へと自分の口から止めどなく流れ出る呪文のような未知なるヴードゥーの雄叫びは暴走しっぱなし。
さすがに声が嗄れたのか喉が渇いたのか、強引に手元にあったイベント進行表か何かの束を宙にばら撒き……終了。
予想外の拍手喝采とアンコールのあめ嵐。
よくぞあんなに途切れなく、当の本人でもまったく意味不明なドリアン・チャンプルー、もとい、闇ナベ・ポエトリーを紡ぎだせたなとビックリしたものだった。
◆
それはいいとして、なぜにあそこまでブーイングもなく、会場の皆がいっせいにワッとアドレナリンをぶっといホースから噴出させることができたのか?
その後、マイクスタンドから離れ際に、そんな疑問がフッと湧き出たと同時に、“答”らしきものが、天だか煙草のヤニで真っ黒の天井だかからか舞い降りてきた。
それはすこぶる無邪気なもので、いちいち書くのも恥ずかしいのだが、イベント終了後に観客の何人かに指摘されたものと同じ理由であったことに安心半分、照れ半分。
ようは、誰も理解不能という突然の “事態” が、幸いにも逆説的状況を作り出し、誰もが「理解」できてしまった、という可笑しな現象が生まれただけなのだった。
もちろん、あまりのアホさ加減にスラプスティック・コメディの一種として単純に “受けた”、という要素も見逃せない。
ただ、はっきりと断言できることは、
――耳に入って来る「コトバ」の中に、理解できる単語なり固有名詞なりがたったひとつでさえ無くなってしまうと、ひとはその「コトバ」を別の次元、別の聴覚で理解しよう、感じ取ろうという、いたって原始的な本能を作動させてしまう――
そんなことを改めて実体感させてもらった、というだけのこと。
その時の模様と異様な熱気と陽気と、白い目と真っ白な歯でニヤりと微笑むブラックのおばはんの妖気漂う豪快な腰振りを活字化できないのが、もどかしいかぎりである。
◆追記:
当時の映像として記録しとく、などといったヤボな考えは幸か不幸か無かった。
その後、2009年の春に東京は代々木公園で行われたパフォーマンスの映像のみが、たまたま残っている。
“国際ポエトリー・ギグ:IPONIKA POETIKA”は名前を変え、
メンバーも一新し、「ポエトリー・ギャングスターズ」として意外な場所で会場ジャックしてゆくことになるのでした。
アホな映像である……
http://www.youtube.com/watch?v=vcra0GdS2kg
次は一転して、ちょうど十年前の今日、イスラエル最大の経済と文化の都市、テルアヴィヴにて筆者が出会った老ボヘミアンへのオマージュだ。








